米吾の源流を探る

米五館

江戸幕府が開府した数十年後から、米屋五左衛門を代々襲名してきた商家が山陰・米子にありました。鳥取藩を支えた廻船問屋からはじまり、一世を風靡した旅館「米五館」を開業。そして、山陰線の開通とともに取り組んだ駅弁販売。時代の流れとともに幾つかの節目を経て、「吾左衛門鮓」が誕生するまでの足跡をご紹介いたします。

はじまりは米と船から

五左衛門

「米吾」のはじまりは、江戸時代に米子で営んでいた米屋と廻船問屋までさかのぼります。

その当時の屋号は「米屋」。大船を所有していた五代目米屋五左衛門が、米子周辺の良質な米を大坂、博多などに出荷しておりました。大坂へは、一回に千俵から二千俵を運んだともうします。

これより前、鳥取藩は米などの生産物を輸送するとき、藩内船よりも他国船に頼っておりました。そこで、同業者の仲間と大船を造り、鳥取藩の年貢米を大量に輸送した五左衛門は、その功績によって名字帯刀を許されました。

以後、内田五左衛門と名乗るようになりました。その子孫が明治時代になってから、「米吾」を創業することになったのです。

日本海の荒波に出た大船では、船子たちが一生懸命に働いていました。五左衛門とその妻女は航海の安全を祈願して、船子たちに弁当をもたせました。

日持ちがするように酢飯をおにぎりにして、そこに酢でしめた鯖をのせてワカメで巻き、竹皮で包んだ弁当でした。これが「吾左衛門鮓」のルーツとなりました。

文明開化と旅館「米五館」

冊子に掲載された米吾館の広告

▲冊子に掲載された米吾館の広告
(蔵)米子市立図書館

幕末から明治維新を迎え、時代は海路から鉄道へと変わろうとしていました。交通の要所だった米子は、物流の玄関口として活況をみせておりました。

十代目内田吾吉郎は押し寄せる文明開化の世相を感知して、明治七年、米屋を廃業して米子港の近くに旅館をはじめました。

「米五館」は品格のある建物で、広大な庭園もございました。華麗な室内装飾に、ときには珍しい洋燈のライトアップをそなえるなど、粋をこらしてお客さまをおもてなしいたしました。

山海の料理を召し上がっていただいたこともあり、日に日に評判となり、大勢の宿泊される方々で賑わうようになりました。

官員や文人墨客の宿泊も多く、大町桂月、板垣退助、小泉八雲などにもお越しいただきました。

駅弁を販売する「米吾」創業

山陰線

明治三十五年、鳥取県の境~米子~御来屋に鉄道が開通して、山陰線が生まれました。

山陰線開通工事の責任者は、鉄道局の石丸重美氏でした。石丸氏は「米五館」に宿泊して、総指揮にあたられました。地域の発展を願っておりました十代目内田吾吉郎は、工事への支援をおしまず献身的に協力いたしました。

これにより、鉄道局から功労者として表彰を受け、米子駅で構内販売の許可をいただくことができました。そこで吾吉郎と妻せいは、おいしい駅弁を販売することにしました。

このときをもち、明治三十五年を「米吾」の創業としております。

「エー、弁当~。ベントー、ビールにサイダー」という名調子が駅構内で聞かれるようになりました。ときには、動き出した列車のお客さまに、小走りしながら窓越しに駅弁を手渡す風景が旅情を誘いました。

駅弁の販売は大変順調で、日ごとに忙しさが増してまいりました。お客さまのためにもっと駅弁のおいしさを極めよう。そう決意を固め、明治四十五年、惜しまれながら「米五館」を閉鎖いたしました。

以後、今日まで「駅弁の米吾」として歩み続けております。

船子の弁当を復活した「吾左衛門鮓」

米吾ビル

(蔵)米子市立図書館

明治から昭和へかけて、米吾の駅弁は山陰の旅の伴侶として広く知られるようになっていきました。

大正十五年、米子駅前に「米吾ビル」が完成しました。当時としては珍しい、鉄筋コンクリート三階建ての近代的なビルは米子名物にもなりました。レストランもあったことから訪れる人が後を絶ちませんでした。

昭和三十年代には、新しい駅弁を次々と発売いたしました。「かに寿司」「鯖寿司」「大山おこわ」など、山陰の新鮮な素材を生かしたおいしさから、旅人だけでなく地元の皆さまからも親しまれる名物弁当に育ちました。

そして、昭和五十四年。

十三代目内田健二郎は、山陰の食文化を伝える駅弁をずっと模索しておりました。昼に夜にと文献を読みあさっていたとき、米屋五左衛門が船子たちの弁当にした寿司を知りました。これをヒントに四年の歳月をかけて、ついに新しい駅弁が完成いたしました。

これが「吾左衛門鮓」でございます。

その後も、特許製法を取り入れるなど、さらにおいしさを極め続けてまいりました。今日では、駅弁としても、贈答品としても高い評価をいただいております。